かつての非武装地帯(DMZ)を訪れて。南北ベトナム分断はなぜ起こったのか

ドンハの北30キロほどに位置するヒエンルアング橋。かつての南北ベトナムの国境であった

クアンチ省。かつてのベトナムの首都、フエから北へ90キロほど進んだところにあるこの省に、ドンハというまちがあります。

取り立ててこれと言った名産もなく、人口も少ないこの街。一軒観光客には何の魅力もなさそうに見える場所でありながら、今では連日観光客が訪れる街の人の一つであります。

かつてベトナムはに別れた分断国家でした。

北はホーチミン率いる北ベトナムこと、ベトナム民主共和国

南はフランス、そしてアメリカの傀儡国家であった南ベトナムこと、ベトナム共和国

そしてこの二つは、今日、僕たちが連日耳にする北朝鮮、韓国のように、同じ民族を持ちながらも戦争をし、お互いに対立するという悲しい歴史を歩んできた国なのです。

では大国の意思に翻弄される形で起こったこのベトナム分断はどうして起こったのか。今回はこれを見ていこうと思います。

かつての軍事境界線、北緯17度線とヒエンルオン橋

かつての軍事境界線が置かれていたヒエンルオン橋は、ドンハの街からさらに国道1号線を25キロほど北に進んだところにあります。

かつて軍事境界線が置かれDMZの中心であったていたヒエンルオン橋。

軍事境界線が置かれていたヒエンルオン橋。右に見える橋は国道1号線。

軍事境界線とは様々な事情で、一つの国が分断された時に設けられる両側の国を隔てる境のこと。北朝鮮と韓国とを隔てる38度線日本でも有名です。

ベトナム民主共和國、すなわち北ベトナムと、ベトナム共和国南ベトナムとはベトナム中部のクアンチ省のちょうど真ん中ですっぱりと北ベトナム、南ベトナムとに分けられました。そしてこの境界線はほぼ北緯17度に沿って分けられたことから、この二つの国の軍事境界線は通称17度線と呼ばれたのです。

ヒエンルアン橋はその軍事境界線が、ちょうど橋の真ん中にかった橋。つまり橋の中心から北側は北ベトナム、南側は南ベトナムと分けられることとなった、そんな場所なのです。

かつての軍事境界線、ヒエンルオン橋に到着して

「目的地に到着しました」

Google Mapのそんな表示に従ってバイクを止めた。軍事境界線が置かれた場所の一つであるヒエンルオン橋は、ホーチミンとハノイを結ぶ主要道路である国道1号戦沿いにある。


戦争終結と南北統一から40年以上たった今のベトナムには欧米を中心とした旅行者も多く訪れる。物価の安さを武器に長期滞在者を中心に人気を高めており、観光客は年に20%とも言われる勢いで増えていると言われている。

ベトナムは社会主義国家と言っても、YoutubeやFacebookを規制する中国などとは違う。ネットの規制もなく、Google Mapを使うことにはなんの問題もない。一般の人たちは金を使って取引し、スマホを使い、クラブで踊る。生活レベルの違いこそあれど、我々と同じ生活をしているから、ふと政治体制の違いというのはなんなのだろうかと考えてしまう。

牧歌的な光景の中に残るかつて分断の跡

ヒエンルオン橋を最初に訪れて思ったのは案外小さいな」というものだった。

ヒエンルオン橋の側にある池の上には巨大な母子像が立っている

敷地内にあるベトナム母子像。

モニュメントも建てられているし、広々とした公園も隣接されているから、それらを合わせた総合的な敷地としては別に規模自体は小さくない。

ただ周辺に広がる田んぼと、その周辺で草を食むバッファローという牧歌的光景が、「ベトナム戦争」「激戦地」という言葉から連想するイメージとはかけ離れているために、そう感じるのかも知れない。

Ticket と書かれた小屋はあるものの、売り子がいる気配もない。

かつては入場料を徴収していたが、やめたのか、それとも日曜日だから働きたくないのか。どちらもベトナムならありそうだなと思ってしまう。ゲートは開けっ放しになっているし、ゲートの向こうには散歩をしている老人とたむろをしている地元の若者の姿も見える。問題はないのだろうと判断して橋に入った。

かつて軍事境界線が置かれDMZの中心であったていたヒエンルオン橋。

軍事境界線が置かれていたヒエンルオン橋。左に見える橋は国道1号線。

観光地となったかつてのDMZ

橋の上は妙に静かだった。鉄骨をベースに木を乗せて作られた橋の上にいるのは、同じくバイクで来たらしいドイツ人バックパッカーが2人ほどいるばかり、他に観光客の姿はない。

時間的にツアーの客らがすでに他のエリアの観光に移っているからだろう。

DMZとはDeMilitarized Zoneの略だ。これは軍事化されていない地域という言葉で、日本語では非武装地帯と訳されます。ベトナムの場合、北緯17度線に沿って走る形で作られた、事実上の国境である軍事境界線と、その南北5キロ周囲のエリアのことを指している。

非武装地帯(DMZ)地域を訪れるには、もっとも近い観光都市であるフエからツアーに参加する方法が一般的だ。多くのツアーの参加者たちは、バーもまともなレストランもない非武装地帯に滞在しようとは考えないため、大概は早朝にフエを出て、DMZ地帯、ケサンなどを1日で回る強行軍。この国境地帯などは、午前中のうちに観光を終えてしまうことが多いのだろう。

北緯17度のかつての南北ベトナム軍事境界線

かつての南北国境。右側が南ベトナム、左が北ベトナムだった

かつての軍事境界線にたって

軍事境界線は橋の真ん中にあった。

橋の真ん中にひかれた白線、これがかつての軍事境界線を表していた。白線の左側、橋が青く塗り分けされた側は北ベトナムであり、橋が黄色く色分けされた橋の右側は南ベトナムだった。

これが50年前ならば、今自分は二つの国にまたがって立っていたということになる。

橋の上から見回すと橋の両岸に田園地帯。ポツポツと幾つか家も見える。

国が分断された当時もこのエリアに住んでいたのは、文化を共有する同じ国に住む人たちだった。1954年に大国が自由主義だの共産主義だのという、イデオロギーを並べて国境を引いてしまうまで、この橋は田園地帯にかかる一本の橋以外の何者でもなかったはずだ。

家族が近くに住むことの多いベトナム。おそらくは分断によって家族が引きさかれ、別々に生きざるをえなくなった人たちも多く存在するのだろう。

ベトナム戦争以前のベトナムの歴史

ベトナムが南北に別れた原因を語るにはまず第二次大戦以前、19世紀にまで遡る必要があります。

当時ベトナムを収めていたのは、フエを王都に置く阮(グエン)朝でした。この国は中国「清」を宗主国に持つ国として生まれましたが、19世紀半ば頃からは、世界各地で急速に植民地支配を進めていたフランスの支配下に飲み込まれることとなります。これがベトナムの悲劇の始まりと言えるものでした。

第二次大戦でのフランス敗北と、日本進駐

フランスによるベトナム支配は熾烈なものだったと言います。皇帝カイディンの時代には皇帝の力さえも全てフランスに握られており、皇帝自身はなんの政治的権力も持たなかったとさえ、言われています。

しかしそんなフランスの支配力も第二次世界大戦でのフランスの敗戦をきっかけに揺らぎ始めます。戦争が勃発するや、ヒトラー率いるドイツ軍は電撃戦による快進撃を進め瞬く間にパリは陥落、1940年の6月末頃にはフランスはドイツに降伏します。そしてドイツの後ろ盾のもと、ドイツ占領下のフランスでは親ドイツ政権であるヴィシー政権が誕生、べトナムを支配していたフランスの植民地政府もヴィシーにつくことを決断したのです。

この状況の中、ベトナムにある国が進出してきます。当時アジアで、ドイツと同盟関係にあった国。そう、日本でした。

日本は当時、戦争状態にあった中華民国への補給を断つことを目的に、フランス領インドシナ、現在のベトナムに進駐しました。この結果、政治的にはフランスが現体制を維持しながらも、軍事的には進駐している現地フランス軍を上回る日本軍が睨みを聞かせるという二重構造が誕生したわけです。

日仏共生の終わりとベトナム独立

この奇妙な共生関係は1945年の3月まで続きます。欧州でのドイツの敗戦が色濃く、その傀儡フランス植民地政府との共生が難しくなったとみた日本は明号作戦と呼ばれた作戦実行します。この作戦で日本はベトナム各地に存在した進駐フランス軍を撃破。これに伴い、日本はフランスインドシナの支配下にあったベトナム・カンボジア・ラオスの三ヶ国の国王らに対し独立をしてよいとの勧告を行ったのです。

これに呼応し阮朝皇帝のバオ・ダイは、フランスとの保護条約を破棄。独立国を宣言したのです。

フエの王宮

しかし日本の後ろ盾で独立したベトナム帝国をよしとしなかった人たちがいました。それがホーチミン率いるベトミンと呼ばれる人たちです。

ホーチミンからしてみれば、バオ・ダイのベトナム帝国は日本の傀儡政府にすぎない。つまりフランスが日本に置き換わっただけだったからです。8月になり日本がポツダム宣言への受託を宣言すると、ベトミンはサイゴン、フエ、ハノイなどで一斉に蜂起。ホーチミンはベトナム民主共和国の独立を宣言します。

日本の武装解除を目的に北に中国、南にフランスが進駐

しかし連合国、特にベトナムを含む旧フランスインドシナ諸国の再支配を目論むフランスはこれを認めませんでした。連合国は日本軍の武装解除の名目で、北部に中国軍、南部にイギリス軍を送り込み、その後イギリス軍に変わってフランスが再びベトナムに戻ってきます。フランスはベトナム民主共和国の独立を拒否すると、肥沃なメコンデルタを中心にして傀儡政権を設立。これが第一次インドシナ戦争と言われるフランスとベトナム民主共和国との戦争に繋がっていくわけです。

歴史の面白いところは、こうして歴史的には対立したはずのベトミンと日本軍でありながら、ベトミンに協力する日本兵も多く現れたことです。彼らは明号作戦で手にしたフランス軍の武器をベトミンに引き渡したほか、600人から800人が第2次戦争後もベトナムに残り、第一次インドシナ戦争に参加します。この戦争で残留した日本兵の約半数が戦死したとも言われています。

その後、8年続いたフランスとベトナムの戦争はディエンビエンフーの戦いでの勝利を契機に一気にベトナムに有利に傾きます。ベトナムはホーチミンの元、フランスからの支配を逃れた…はずでした。

独立の意思通らず、大国の手により分断国家に

スイスのジュネーブに関係国が集まり和平会談では、独立を求めるホーチミンの主張は通りませんでした。当時ベトナム全土に勢力を広げていたベトナム民主共和国側は譲らなかったものの、結局は中国、ソ連など共産圏の大国の説得に応じ、北緯17度線での国家分断を受け入れざるをえなくなります。

こうして生まれたのが北ベトナムと言われるベトナム民主共和国。そして撤退したフランスから変わって現れたアメリカの後ろ盾を得た、ベトナム共和国、通常南ベトナムの二つのベトナムだったわけなのです。

1954年。こうしてベトナムは社会主義国家である北ベトナムと、自由主義同盟側の南ベトナムとに別れて行くこととになります。そこに住んでいた人々の意思とは関係なく。

ベトナム戦争と国が分断されるということ

橋を渡り、かつての北ベトナムの領土に足を踏み入れると大きな拡声器が目に入った。

かつて南北の国境に設置されていた拡声器。銃弾の跡が今もなまなましく残っている。

ベトナム浅草寺に使われた拡声器。銃弾の跡が残る

南北分断時に使われていた拡声器。銃弾の跡が残る

1954年の南北分断。ベトナムの悲劇はこれで終わらず泥沼となったベトナム戦争へと続いて行くことになるのだ。

旧旧南北国境の戦争記録館のベトナム軍像

南北分断はベトナム戦争へと繋がっていく

国家が分断されたのはベトナムだけではない。ドイツは東西に分かれ、そして日本に近い韓国、北朝鮮は今も南北に分断され続けている。

 

こうした国家の問題を話す時に、「アメリカに守ってもらって感謝がない」というような発言を聞くことがあります。しかし分断国家の場合、国家という枠組みだけで「守る」や「感謝」などというのも難しい話なのかも知れません。

南北が再び統合され、再開を果たすベトナムの老婆たち

ベトナム戦争終結後、再開を果たした家族

ベトナムの南北分断とは。「国家」に分断という政治的なものだけではない。無理やりに家族を引き離した「民族分断」の歴史なのです。

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