みなさんはベトナムの首都がどこかご存知でしょうか。
ベトナムの首都、それはベトナム北部に位置する「ハノイ」です。
[voice icon=”https://www.tabigurashi.com/wp-content/uploads/2017/08/tsuchimoto0I9A6480_TP_V.jpg” name=”” type=”l”]あれ?ホーチミンって街が一番大きいんでしょ?首都じゃないの?[/voice]
そうなんです!ホーチミンは人口、800万人で、ハノイの700万人よりも多く。経済規模で見ても、ハノイに比べて大きいと言われています。
そうするとますます湧いてくるのが、なんでベトナム最大の街ホーチミンは首都じゃないか?ということ。
今回はこの「なぜ?」の疑問にお答えします。
Contents
なぜ最大の都市が首都ではないのか
さて、ホーチミンは人口800万人。ハノイは人口700万人。
経済的にも、ベトナムで一番肥沃で農作物の収穫高も高いメコンデルタに近く、外資にもオープンな姿勢を見せているホーチミン市はベトナム全体のGDPの半分を占めています。つまり人口の上でも、経済の上でも、ホーチミンはベトナム最大なのは間違いありません。
なぜ最大の都市ホーチミンは首都ではないんでしょう?
我々日本人の感覚から言えば、東京のように一番人口の多く経済的にも強い都市が首都になるのは当然のように思いますよね。実際、イギリスやフランスだってロンドンやパリが最大の都市で、首都じゃないですか。(日本の場合、東京は首都じゃないとする意見もあったりしますが、ここでは割愛)
しかし実は世界的に見てみれば、最大の都市が首都ではないといのも、別に珍しい話ではありません。例えばカナダの首都オタワは人口150万ほどで、最大の都市であるトロントの260万人には遠く及びませんし、オーストラリアの首都だって、キャンベラという小さい街で、多くの人が知っているシドニーじゃありません。ニューヨークだってアメリカの首都じゃないのはよく知られてますよね。
首都は歴史的理由で定められることも多い
このように最大の都市でない街が首都になるのは、歴史的、地理的にその街を首都にする理由があったからです。過去に重要な都市であったとか、似たような規模の都市が複数あって、勢力争いを避けるためなどですね。
実はホーチミンは昔はホーチミンという名前ではありませんでした。そしてハノイもホーチミンも首都であった時代もあります。
実はこれにはベトナムを文字通り二分したこの国の激動の歴史が関わっているんです。
首都「ハノイ」は11世紀から始まった
そもそも今のベトナムの源流となるキン族国家が収めていたのは、今でいうベトナムの北部だけ。中部域から南部にかけては、カンボジアのクメール系とつながりの深いチャンパという別の国が収めていました。
ハノイは歴史的、政治的につながりが強かった中国との交易の要所として栄え、11世紀には当時のベトナムの王家である李朝がニンビンからハノイへ王宮を移したことで、正式にベトナムの首都となります。以降17世紀の終わりまで、ハノイはキン族国家の首都であったのです。

グエン朝による「フエ」への遷都
この状況が大きく変わったのは19世紀の始めのこと。中国「清」の後ろ盾のもと、キン族国家は南進を開始しました。ベトナムはチャンパ王国を飲み込む形で領土を拡大。
この時にクメール人の街で大都市であったプレイノコールを含む南部地域もベトナムへと組み込まれます。
南北に広い領土を持つこととなったベトナムの首都として、当時の皇帝が選んだのがベトナム中部に位置するフエでした。

これ以降、フランスによる植民地支配、第2次大戦時の日本軍駐留の間もフエは国王が住む政治的な首都でした。その後も20世紀の中盤まではハノイでもホーチミンでもなく、その中間にある都市「フエ」がベトナムの首都であったわけです。
この間キン族による移民が進んだプレイノコールは、サイゴンへと名前を変えていくことになるんです。
日本の敗北とベトナムの南北分裂
しかし日本が敗北すると、再び情勢が変わります。ベトナムの植民地支配からの完全解放を謳うホーチミン率いるベトミンは弱腰であるベトナムのラストエンペラー、バオ=ダイとベトナム帝国をよしとせず、ハノイを首都に定めてベトナム民主共和国を建国します。
一方、これをよしとしなかったのは長くベトナムを植民地支配していたフランスです。フランスは日本がいなくなったのをいいことに、再びベトナムに舞い戻り、南部地域を支配に収めます。この結果、南部の解放を狙う北部ベトナムと、フランスとに間で、後に第一次インドシナ戦争と呼ばれる戦争が勃発することとなるわけです。
結局この戦争は、ベトナム民主共和国側の勝利で終わることになります。しかし戦後交渉では大国の意思が優先され、ベトナムはハノイを首都とする北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南部最大の都市サイゴンを首都とする南ベトナム(ベトナム共和国)の二つの国に別れることなってしまったんですね。

ベトナム戦争とベトナム社会主義国の誕生
しかしベトナム全土の解放を願っていたホーチミンや、各地のベトミンたちにとって、外国勢力の傀儡である南ベトナムは面白い存在ではありません。各地でベトナム解放のための抵抗運動が再び展開されるようになり、これがベトナム戦争へと繋がっていくことになるのです。

ベトナム戦争は泥沼と表現されるような長期に渡る戦争となりますが、長い戦争に国内の厭戦気分の増したアメリカが撤退を始めると、勢いづいた北ベトナムはついに南ベトナムの首都サイゴンを陥落させます。そして南ベトナムは北ベトナムに吸収され、新たな統一国家「ベトナム社会主義国」が誕生したわけです。
ベトナム社会主義国の首都は
仮にこの国が話し合いなどで平和的に誕生したというのであれば、ハノイとサイゴン二つの巨大都市の中間にある都市…もともと18世紀以降首都であったフエあたりに首都をおくというのもありえたのかも知れません。
しかし今回の場合、北ベトナム側は相手側の首都まで落としてしまってるわけですからなんの遠慮もいりません。北ベトナムを勝利に導いたホーチミンは、北ベトナムの首都であったハノイを引き続きベトナム社会主義国の首都にすることに決めたのです。
ホーチミン市の誕生
さてこのホーチミン、フランスと戦った第一次インドシナ戦争でも指導者であった人物です。1945年、日本軍の降伏に合わせてハノイを首都として、ベトナム民主共和国を作ったのもこのホーチミン。つまり彼は建国の父、救国の英雄。そんな枕詞をいっぱいつけてもいいくらいベトナムにとっては重要な人物な訳です。これはベトナムのお札が全てホーチミンということからも見て取れます。

じゃあ、彼の偉業を記念して都市に名前をつけようよ、ということで、南ベトナムの首都であったサイゴンの名前を改めて、ホーチミン市とすることに決めたわけです。フランスやアメリカと行った外国に開かれた都市であったサイゴンは、当時すでに大都市であったわけで、政治的にも首都を上回る規模になるのなら、指導者の名前にしてしまって力をアピールしようとかそういう狙いがあったのかもしれませんね。
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政治の中心地ハノイと最大の経済都市ホーチミン
こうして政治の中心ハノイと、経済都市ホーチミン市という二つの都市ができあがったわけです。
ハノイは社会主義国家の首都として、現在でもなにかと締め付けが厳しいと言われます。道を歩けば警官や交通警察、軍人など政府の人間と出くわしますし、外資の締め付けに関しては700万都市でありながら、マクドナルドの出店がないほどです。
もともと南側はベトナム一肥沃と言われるメコンデルタ地帯があります。フランスが山がちで生産性の低い北部を捨て、南だけ独立させようとしたのもそれが理由。北に比べてオープンな風土を持つとされるホーチミンには、人ものも集まります。そのため今でもやはり経済的にベトナムを牽引しているのはホーチミンのある南部地域なのです。
ベトナム戦争があれほど長期に及ぶことがなく、平和裡に解決していれば首都はまた違う都市だったのかも知れません。
しかし現実は大国に翻弄される形でベトナムは二つに別れ、戦争が起こりました。そしてその歴史の結果が政治の中心地ハノイと、経済最大のホーチミンの二つに別れるという結果だったのです。
以上の理由があって、ベトナムの首都は最大の都市ホーチミンではなく、ハノイである、というわけなんですね。
ベトナムの首都ハノイとホーチミン市の場所はどこ?
ベトナムの首都ハノイは東京から飛行機で5時間程度、対するホーチミンは飛行機で6時間ほどの場所に位置しています。

ベトナムは南北に細長〜い国です。ハノイとホーチミンの間も1600キロほど離れていて、バスなど陸路で移動をしようと思えば、丸々二日はかかるほどの距離。
僕自身ホーチミンからハノイまでバスでの移動を試して見ましたが、荒い運転と硬いシートとで体がバキバキになりました。
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この二つの都市はかなり距離がありますが、冒険好きの若い欧米人バックパッカーや若いベトナム人の大学生を中心にこの二つの町をバイクで旅するのが人気を集めていたりします。